【その三十一】母ちゃんのおむすび

少し前から、

故郷のお墓のことで頭を悩ませています。

「だいぶ草が伸びてるよ。」

親戚から連絡をもらっていました。

母の三回忌を終えてから、

なかなか帰ることができていません。

仕事が忙しい。

遠い。

理由はいくらでもあります。

墓じまいをすることまでは決めました。

でも、

そのあと母をどうするのか。

それだけが、

どうしても決まりませんでした。


「お父さん、今日なに着てくるの?」

体操服姿の娘が、

玄関から顔を出しました。

「普通の服。」

「普通ってなに?」

「普通は普通だろ。」

「変なのやめてよ。」

小学四年生にもなると、

ずいぶん注文が多くなります。

「お母さんもだからね。」

台所では、

妻がお弁当作りに張り切っています。

今日は娘の運動会です。

私は台所を通りながら、

できたばかりのおむすびを一つつまみました。

「ちょっと、まだダメ。」

「一個くらいいいだろ。」

一口かじりました。

「塩、ちょっと多くない?」

「運動会だから、そのくらいでいいの。」

その味で、

ずっと昔のことを思い出しました。


小学五年生の運動会。

私は母ちゃんに、

何度も頼んでいました。

「母ちゃん、絶対来てよ。」

前年の運動会は、

一人で持参した弁当を食べました。

友達が家族とレジャーシートを広げているのが、

羨ましくて仕方ありませんでした。

父は病気がち。

母ちゃんは、

市場で働きながら家を支えていました。

忙しいことくらい、

子どもながらに分かっていました。

それでも、

その年だけは来てほしかった。


午前最後の競技は、

五年生の百メートル走。

走るのには自信がありました。

練習では、

いつも一番。

母ちゃんに、

いいところを見せたかった。

でも、

何度探しても、

母ちゃんはいません。

もうすぐ自分の番。

来ない。

結局、

来ないんだ。

急に、

どうでもよくなりました。

結果は二位。

悔しい。

腹も減った。

母ちゃんも来ない。

昼休みになっても、

私は一人でふてくされていました。


もうすぐ、

午後の競技が始まる頃でした。

遠くから、

私の名前を呼ぶ声がしました。

一度ではありません。

何度も、

大きな声で呼んでいます。

周りの子も、

家族も、

みんな振り返りました。

校庭の向こうから、

母ちゃんが走ってきました。

仕事着のまま、

荷物を抱えて、

全力で走っていました。

「遅なって、ごめん!」

恥ずかしくて、

嬉しくて、

涙が出ました。

昼休みは、

もうほとんど残っていません。

母ちゃんの隣で、

おむすびを急いでかきこみました。

少し、

塩辛かったことは今でもおぼえています。


「次、四年生の百メートルだよ。」

妻の声で、

我に返りました。

スタート地点に、

娘がいます。

こちらを見ようともしません。

朝、

あれだけ言われました。

目立たないで。

恥ずかしいことしないで。

号砲が鳴りました。

娘が走り出します。

気がつくと、

私は立ち上がっていました。

「がんばれー!」

妻がこちらを見ました。

「がんばれー!」

もう一度、

大きな声で叫びました。

娘はゴールすると、

こちらを見て、

ものすごく嫌そうな顔をしました。

妻が笑いました。

私も笑いました。


家に帰って、

故郷のお墓の写真を、

もう一度見ました。

墓じまいをすることは、

もう決めています。

ただ、

その先だけが、

決められずにいました。

「なあ。」

「なに?」

「母ちゃん、こっちに連れてこようと思う。」

妻は、

「うん。」

と言いました。


墓じまいコンシェルジュより

味は、

不思議なものです。

忘れていたはずの一日を、

たった一口で、

思い出すことがあります。

そして、

自分が同じ立場になって、

初めて気づくこともあります。

あの日、

なぜ母があんなに名前を呼んで、

自分のところへ来てくれたのか。

墓じまいのあと、

すべてのお骨を一つの場所へ納めず、

一部を手元に残す方法もあります。

離れていた時間が長かったから、

これからは少し、

そばにいてもらう。

それもまた、

供養の一つの形なのだと思います。

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この物語は、「お墓じまい後の物語」のオリジナル作品です。

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