【その十三】父が最後に残した、一冊の文庫本。

父が最後に残した、一冊の文庫本。

「わしも、これにしよう思てる。」

そう言って父は、一冊の文庫本を私へ放りました。

読書好きとは思えない父が読んだのでしょう。

表紙には何度も開いた跡があり、

ページの角は折られ、

手に馴染んだような柔らかさがありました。

何のことか分からず、

私はぱらぱらとページをめくっていました。

その間に父は食器棚へ向かい、

今度は通帳と、小さなリーフレットを持って戻ってきました。

「これも頼んどいた。」

「手はずはついてる。」

「あとは、よろしく頼むわ。」

そう言って、自分の部屋へ戻っていきました。

リーフレットには、

墓じまいと海洋散骨の案内。

名刺には、

担当の方の名前。

そして父の字で、

小さなメモが添えられていました。

その出来事から間もなく、

私は父が重い病気であることを知りました。

父は男手ひとつで魚屋を営みながら、

私を育ててくれました。

でも私は、

思春期になると魚屋の息子というだけでからかわれ、

「魚くさい。」

そんな言葉を浴びせられ、

父に反発するようになっていました。

同じ家に暮らしていても、

ろくに口をきかない年月が続きました。

私も大人になり、

そろそろ親孝行でもしようか。

そう思い始めた矢先のことでした。

父は、

最後にこう言いました。

「小さい頃、

魚屋、魚屋って言われてたな。」

「あれ……

ほんま悪かったな。」

私は何も言えませんでした。

謝るのは私の方だったからです。

父が亡くなったあと、

私は、あの日渡された文庫本を読みました。

折り目の付いたページを開くと、

そこだけ少し紙が黒ずんでいました。

何度も、

何度も、

父が読み返したのでしょう。

そこには、

残される人への思いや、

人生の終わりにできる最後の優しさについて書かれていました。

父はきっと、

私に読ませたかったのではありません。

自分自身が、

そうありたいと思っていたのだと思います。

私は父が残したメモどおり、

墓じまいをお願いし、

海洋散骨を選びました。

父が最後まで信じた方法を、

そのまま受け継ぐことにしました。

そして今でも、

あの文庫本は私の本棚にあります。

時々手に取ると、

ページの折り目に父の指先が重なるような気がします。

あの日、

父は私に本を渡したのではありませんでした。

これから先も生きていくための、父の背中を渡してくれたのだと思います。

ご家族の供養物語を読んでみる方は

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この物語は、「お墓じまい後の物語」のオリジナル作品です。

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