夫が亡くなってから、
一人で暮らしていました。
長く住んだ田舎の家です。
朝になればお茶を淹れ、
洗濯をして、
買い物へ行けば、
知っている顔に会いました。
けれど、
夫が亡くなってから、
息子は何度も言いました。
「母さん、こっち来ない?」
「まだ大丈夫よ。」
「一人だろ。」
「大丈夫、大丈夫。」
そんなやり取りを、
何度か繰り返しました。
やがて、
お墓をしまうことになりました。
夫の遺骨は、
息子の家からも行ける場所にある
合祀墓へ移しました。
それを機に、
私も田舎の家を離れ、
息子夫婦と暮らすことになりました。
新しい部屋を、
息子夫婦は用意してくれていました。
「ここ、母さんの部屋。」
「こんなにしてくれなくてもよかったのに。」
「何もしてないよ。」
「十分よ。」
お嫁さんも、
「お義母さん、何かあったら
何でも言ってくださいね。」
と言ってくれました。
「ありがとう。」
そして、
「大丈夫よ。」
と答えました。
都会の暮らしは、
何もかも近くにありました。
病院も近い。
駅も近い。
買い物にも困りません。
ある日、
孫がケーキを買ってきました。
「おばあちゃん、これ食べてみて。」
「まあ、きれい。」
田舎では、
あまり見たことのないような
ガトーショコラというチョコレートケーキでした。
一口食べます。
「おいしいねえ。」
孫が、
「近くのスーパーにあるんだよ。」
と言いました。
「スーパーに、こんなの売ってるの?」
「いっぱいあるよ。」
「へえ。」
母は、
もう一口食べました。
みんな、
よくしてくれました。
だから、
余計なことは言わないようにしました。
朝、
少し早く目が覚めても、
家族が起きるまで
部屋にいました。
台所で何かしようと思っても、
お嫁さんが、
「大丈夫ですよ。私やりますから。」
と言ってくれます。
「そう?」
「座っててください。」
「ありがとう。」
何か欲しいものはないかと
息子に聞かれても、
「大丈夫よ。」
と答えました。
孫に、
「おばあちゃん、退屈じゃない?」
と聞かれても、
「大丈夫、大丈夫。」
と笑いました。
でも、
夕方になると、
少し長く感じる日がありました。
田舎なら、
この時間には何をしていただろう。
そんなことを考えることが
増えました。
窓の外には、
知らない建物が並んでいます。
遠くを見ても、
いつもの山はありません。
それでも、
家族が帰ってくるころには、
いつものように、
「おかえり。」
と笑いました。
ある日、
部屋へ戻ると、
棚の上に、
見慣れない小さなものが
置いてありました。
近づいて、
手に取りました。
しばらく、
そのまま見ていました。
息子が、
夫の遺骨の一部を粉骨して、
手元に残してくれていました。
母は、
何も言いませんでした。
小さな手元供養を、
両手で包むように持ちました。
それから、
棚にあった夫の写真を見ました。
少しだけ、
笑いました。
廊下の向こうに、
息子がいました。
母の様子を見ていましたが、
声はかけませんでした。
母も、
息子には気づきませんでした。
次の日の朝。
母は、
少し早く目を覚ましました。
いつものように、
しばらく部屋にいました。
それから、
布団を出ました。
静かな廊下を歩いて、
台所へ行きました。
まだ、
誰も起きていません。
戸棚を開けて、
急須を探しました。
「あった。」
やかんに水を入れ、
火にかけました。
しばらくして、
湯気が上がります。
自分で淹れたお茶を、
一口飲みました。

「……うん。」
少しして、
息子が起きてきました。
「母さん、早いね。」
「目が覚めちゃって。」
それだけ言って、
またお茶を飲みました。
朝ごはんが終わったあと、
母は部屋で着替えました。
玄関で、
靴を履きます。
孫が気づきました。
「おばあちゃん、どこ行くの?」
「ちょっとスーパー。」
「おばあちゃん、一人で?」
母は立ち上がりました。
「近いんでしょ。」
玄関のドアに手をかけます。
ドアを開けると、
外の明るい光が、
玄関に入りました。
母は、
少しだけ振り返りました。
「ケーキも見てくるね。」
そのまま、
外へ出ていきました。
――おわり

