築地の朝は早い。
白い息が立ちのぼり、
魚箱へクラッシュアイスが勢いよく落とされる。
競りが始まる前の市場は、
いつも戦場のようでした。
私は魚を見れば、
どこの港で揚がったか、
どんな漁をしたか、
ほとんど分かりました。
それだけは、
誰にも負けない自信がありました。
そんな朝、
一本の電話が鳴りました。
受話器の向こうから聞こえたのは、
懐かしい故郷の方言でした。
「お兄さんが、探しとったよ。」
その一言で、
時間が止まりました。
震災の日。
私は兄と二人、
山の手にある居酒屋で昼から酒を飲んでいました。
船の修理を頼み、
その日は珍しく休みにしていたのです。
そこへ地震が来ました。
大きく揺れる店。
「津波や!」
ママが叫びました。
兄は立ち上がります。
「港へ行く。」
父と母がいました。
引退したとはいえ、
漁港で組合の手伝いをしていたのです。
軽トラックを飛ばしました。
でも、
渋滞で動きません。
その時でした。
遠くの海が、
ゆっくり立ち上がりました。
海ではありませんでした。
壁でした。
私は叫びました。
「兄貴、もう無理や!」
何度も叫びました。
兄は、
ハンドルを握ったまま、
動けませんでした。
父と母は、
二キロほど離れた入り江で見つかりました。
役所の手配で火葬され、
骨壺だけが私たちの手元へ残りました。
兄は、
両手に骨壺を抱え、
何も言わず歩いていました。
その背中だけを、
今でも覚えています。
あの日から、
私は兄に会っていません。
海も怖くなりました。
故郷も離れました。
警備員。
タクシー。
いろいろな仕事をしました。
それでも、
最後に戻ったのは、
やっぱり魚の仕事でした。
海は怖いのに、
魚は嫌いになれませんでした。
久しぶりに故郷へ帰ると、
町は、
まだ途中でした。
整地された土地。
ぽつぽつ建つ新しい家。
まだ帰れない人たち。
そこへ、
一人の男が歩いてきました。
兄でした。
父に、
よく似ていました。
兄は小さな瓶を見せました。
「粉骨した。」
墓をどうするかは、
まだ決めていない。
でも、
父と母の一部は、
海が見える丘へ植樹し、
その根元へ還したというのです。
私は黙って聞いていました。

兄は海を見ながら言いました。
「海が好きやった夫婦や。」
「最後も海やった。」
少し笑って、
続けました。
「これでええと思う。」
長い沈黙のあと、
兄はもう一つだけ話しました。
「親父な。」
「よう言うとった。」
「ただで譲ってもろた船や。」
「いつか儲けたら、
中古でもええから、
弟にも船を買うたれ。」
私は、
初めて知りました。
父は、
そんなことを考えていたのです。
兄は、
遠くの海を見ていました。
私も、
その先を見ました。
すると、
丘の下の海に、
大漁旗を揺らしながら進む船が、
見えたような気がしました。

