【その二十二】兄弟船

築地の朝は早い。

白い息が立ちのぼり、

魚箱へクラッシュアイスが勢いよく落とされる。

競りが始まる前の市場は、

いつも戦場のようでした。

私は魚を見れば、

どこの港で揚がったか、

どんな漁をしたか、

ほとんど分かりました。

それだけは、

誰にも負けない自信がありました。

そんな朝、

一本の電話が鳴りました。

受話器の向こうから聞こえたのは、

懐かしい故郷の方言でした。

「お兄さんが、探しとったよ。」

その一言で、

時間が止まりました。


震災の日。

私は兄と二人、

山の手にある居酒屋で昼から酒を飲んでいました。

船の修理を頼み、

その日は珍しく休みにしていたのです。

そこへ地震が来ました。

大きく揺れる店。

「津波や!」

ママが叫びました。

兄は立ち上がります。

「港へ行く。」

父と母がいました。

引退したとはいえ、

漁港で組合の手伝いをしていたのです。

軽トラックを飛ばしました。

でも、

渋滞で動きません。

その時でした。

遠くの海が、

ゆっくり立ち上がりました。

海ではありませんでした。

壁でした。

私は叫びました。

「兄貴、もう無理や!」

何度も叫びました。

兄は、

ハンドルを握ったまま、

動けませんでした。


父と母は、

二キロほど離れた入り江で見つかりました。

役所の手配で火葬され、

骨壺だけが私たちの手元へ残りました。

兄は、

両手に骨壺を抱え、

何も言わず歩いていました。

その背中だけを、

今でも覚えています。


あの日から、

私は兄に会っていません。

海も怖くなりました。

故郷も離れました。

警備員。

タクシー。

いろいろな仕事をしました。

それでも、

最後に戻ったのは、

やっぱり魚の仕事でした。

海は怖いのに、

魚は嫌いになれませんでした。


久しぶりに故郷へ帰ると、

町は、

まだ途中でした。

整地された土地。

ぽつぽつ建つ新しい家。

まだ帰れない人たち。

そこへ、

一人の男が歩いてきました。

兄でした。

父に、

よく似ていました。

兄は小さな瓶を見せました。

「粉骨した。」

墓をどうするかは、

まだ決めていない。

でも、

父と母の一部は、

海が見える丘へ植樹し、

その根元へ還したというのです。

私は黙って聞いていました。

兄は海を見ながら言いました。

「海が好きやった夫婦や。」

「最後も海やった。」

少し笑って、

続けました。

「これでええと思う。」

長い沈黙のあと、

兄はもう一つだけ話しました。

「親父な。」

「よう言うとった。」

「ただで譲ってもろた船や。」

「いつか儲けたら、

中古でもええから、

弟にも船を買うたれ。」

私は、

初めて知りました。

父は、

そんなことを考えていたのです。

兄は、

遠くの海を見ていました。

私も、

その先を見ました。

すると、

丘の下の海に、

大漁旗を揺らしながら進む船が、

見えたような気がしました。


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この物語は、「お墓じまい後の物語」のオリジナル作品です。

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