【その二十三】九月の温泉

母の話を、

私はちゃんと聞いていませんでした。

適当に相づちを打ち、

話が長くなりそうになると、

自分の部屋へ戻る。

そんな毎日でした。

母は、

どんな話でも楽しそうに話しました。

時には、

誰にも似ていない物まねまでして。

その時の私は笑いもしません。

だから、

今になって思うのです。

もっと聞いておけばよかった、と。

ある日、

母が珍しく強い口調で言いました。

「先生が、

家族の人を連れて来なさいって言ってる。」

私は、

ようやく顔を上げました。

病院の階段は、

長く感じました。

診察室で医師が見せたレントゲン。

大腸がんは、

すでに転移していました。

「お母さんは、

あなたには言わなくていいと言われました。」

「でも、

身寄りがあなたしかおられませんので……。」

それから、

一か月もしないうちに、

母は旅立ちました。

私は6年も前から、

ずっと家に引きこもっていました。

子どもの頃から憧れていた客室乗務員。

何度受けても、何度受けても

採用されることはありませんでした。

ぱきっと折れてしまったこころ。

その日を境に家から出られなくなりました。

母は何も言いませんでした。

働きながら、

私を支えてくれました。

私は、

何も返せませんでした。

母が亡くなってから、

私は引き出しの中を整理していました。

一枚。

また一枚。

写真が出てきます。

毎年九月。

決まって同じ旅館。

同じ海。

同じ部屋。

そういえば、

毎年一泊だけ、

一人で温泉へ行っていました。

私は、

その旅館へ行ってみることにしました。

写真と同じ景色の部屋が空いていると聞き、

お願いをしました。

六畳一間。

窓際には、

向かい合わせのソファが二つ。

部屋へ案内してくれた仲居さんが、

私の顔を見るなり、

驚いたように立ち止まりました。

「この部屋の予約は、もしかして……。」

その方は、

母のことをよく覚えていました。

そして、

静かに話し始めました。

「お母さんな。」

「娘が来るかもしれんから。」

「もし来たら、

私のことは気にせんでええ。


自分のことをしっかりやり」

「母さんは、娘のあんたがおって、

ほんま幸せな人生やった。」

「そう必ず伝えてほしい。」と。

私は言葉が出ませんでした。

仲居さんは、

少し笑って続けました。

「あんた、

客室乗務員になりたかったんやろ。」

「お母さん、

よう話してたで。」

「今は引きこもっとるけど、

ほんまは、

人の痛みが分かる、

ガッツのある子や。」

それが、

お母さんの最後の宿泊だったそうです。

私は初めて知りました。

母が毎年この宿へ来ていた理由を。

私が引きこもり始めた年から


5年間通い続けた旅館

海が好きだったからではありませんでした。

母は、

誰かに娘の話を聞いてほしかったのです。

私は窓を開けました。

九月の海風が、

部屋へ入ってきます。

お墓のことも考えました。

でも、

今日ここへ来て、

気持ちが固まりました。

母を粉骨し、

手元供養をして、

来年の九月、

またここへ来よう。

そして、

ほんの少しだけ、

母をこの海へ還そうと。

母が、

毎年帰ってきていた、この部屋から見えるこの海へ。


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この物語は、「お墓じまい後の物語」のオリジナル作品です。

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