【その三十二】親子

以前、

知らない酒場から電話がかかってきたことがあります。

父が亡くなったという知らせでした。

私は、

「父親はいません。」

そう言って、

電話を切りました。

それで終わったはずでした。

でも、

電話の向こうで聞いた、

「赤ちょうちん」

という酒場の名前だけは、

なぜか忘れませんでした。


小さい頃、

父と母と三人で、

よく銭湯へ行きました。

帰り道、

ゲームセンターへ寄った記憶があります。

父がUFOキャッチャーで取ってくれた、

小さなマスコットのぬいぐるみ。

なぜか、

そのことは覚えています。


ある日の夕方、

私は、

「赤ちょうちん」

と書かれた店の前に立っていました。

少しだけ迷って、

暖簾をくぐりました。

「いらっしゃいませ。」

カウンターの中から、

若い女性が声をかけました。

私は、

空いている席に座りました。


「あの……。」

「はい。」

「昔、ここに○○という人が来ていたと思うんですけど。」

若い女性は、

少し考えました。

すると、

奥から店主らしいおじさんが顔を出しました。

「○○?」

私を見ると、

沈黙がありました。

「もしかして……。」

私は、

小さく頭を下げました。


「何か飲む?」

「焼酎を。ロックで。」

一口飲むと、

思っていたより、

ずっときつい。

「何でもいいので、知っていること教えてください。」

店主は、

少し考えました。

「にぎやかな人だったよ。」

「人には愛された。」

少し笑って、

「口は悪かったけどね。」

「……そうなんだ。」


しばらくして、

「そういや、

お父さん、海に撒いたんだよ。」

「海に?」

「うん。」

少し間を置いて、

私は聞きました。

「場所、わかりますか?」

店主は、

記憶をたどるような顔をしました。

「だいたいなら。」


焼酎をもう一口飲み、

煮込みを口に入れました。

何か少し物足りなくて、

声をかけました。

「おじさん、辛子ありますか?」

「あるよ。」

小皿に添えられた辛子を、

煮込みにつけました。

少し、

つけすぎました。

鼻の奥が、

つんとしました。

私は顔を上げ、

店の中を見渡しました。

古びたカウンター。

壁に並んだ酒。

少し煤けた赤ちょうちん。

なぜか少し目が潤みました。

辛子のせいだと思います。


カウンターの端にいた一人の年老いた男性が、

何か言いたげに顔を上げます。

女性のポーチに、

古びたマスコットが

ぶら下がっているのが目に入ると、

男性は、また視線を落とし

目尻に皺を寄せ、

ビールを一口飲みました。


墓じまいコンシェルジュより

想いを寄せることに、

決まった形はありません。

許すことでも、

忘れることでもなく、

ただ少し、

その人を知ってみたい。

そこから始まる供養もあります。

散骨された海も、

いつか想いを寄せる場所になるのかもしれません。

それもまた、

供養の一つの形なのだと思います。

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この物語は、「お墓じまい後の物語」のオリジナル作品です。

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