以前、
知らない酒場から電話がかかってきたことがあります。
父が亡くなったという知らせでした。
私は、
「父親はいません。」
そう言って、
電話を切りました。
それで終わったはずでした。
でも、
電話の向こうで聞いた、
「赤ちょうちん」
という酒場の名前だけは、
なぜか忘れませんでした。
小さい頃、
父と母と三人で、
よく銭湯へ行きました。
帰り道、
ゲームセンターへ寄った記憶があります。
父がUFOキャッチャーで取ってくれた、
小さなマスコットのぬいぐるみ。
なぜか、
そのことは覚えています。
ある日の夕方、
私は、
「赤ちょうちん」
と書かれた店の前に立っていました。
少しだけ迷って、
暖簾をくぐりました。
「いらっしゃいませ。」
カウンターの中から、
若い女性が声をかけました。
私は、
空いている席に座りました。
「あの……。」
「はい。」
「昔、ここに○○という人が来ていたと思うんですけど。」
若い女性は、
少し考えました。
すると、
奥から店主らしいおじさんが顔を出しました。
「○○?」
私を見ると、
沈黙がありました。
「もしかして……。」
私は、
小さく頭を下げました。
「何か飲む?」
「焼酎を。ロックで。」
一口飲むと、
思っていたより、
ずっときつい。
「何でもいいので、知っていること教えてください。」
店主は、
少し考えました。
「にぎやかな人だったよ。」
「人には愛された。」
少し笑って、
「口は悪かったけどね。」
「……そうなんだ。」
しばらくして、
「そういや、
お父さん、海に撒いたんだよ。」
「海に?」
「うん。」
少し間を置いて、
私は聞きました。
「場所、わかりますか?」
店主は、
記憶をたどるような顔をしました。
「だいたいなら。」
焼酎をもう一口飲み、
煮込みを口に入れました。
何か少し物足りなくて、
声をかけました。
「おじさん、辛子ありますか?」
「あるよ。」
小皿に添えられた辛子を、
煮込みにつけました。
少し、
つけすぎました。

鼻の奥が、
つんとしました。
私は顔を上げ、
店の中を見渡しました。
古びたカウンター。
壁に並んだ酒。
少し煤けた赤ちょうちん。
なぜか少し目が潤みました。
辛子のせいだと思います。
カウンターの端にいた一人の年老いた男性が、
何か言いたげに顔を上げます。
女性のポーチに、
古びたマスコットが
ぶら下がっているのが目に入ると、
男性は、また視線を落とし
目尻に皺を寄せ、
ビールを一口飲みました。
墓じまいコンシェルジュより
想いを寄せることに、
決まった形はありません。
許すことでも、
忘れることでもなく、
ただ少し、
その人を知ってみたい。
そこから始まる供養もあります。
散骨された海も、
いつか想いを寄せる場所になるのかもしれません。
それもまた、
供養の一つの形なのだと思います。

