【その十】今日の山はどうだい?

「今日の山はどうだい?」

主人の入院生活は長いものでした。

私もできる限りのことはしました。

嫁いだ二人の娘も、まだ小学生だった孫を連れながら、何度も病院へ来てくれました。

それでも正直に言えば、しんどい日もありました。

主人が一番つらい。

そんなことは分かっていました。

それでも私は、ときどき心ない言葉を口にしてしまったことがあります。

今思えば、もう少し優しくできたのではないか。

そんな後悔は、今でも私の中に残っています。

主人は、病室でテレビを見るのが好きでした。

でも、ある頃からテレビを消し、窓の外を眺める時間が増えていきました。

「母さん、今日は天気がいいね。」

「ほら、向こうの山。山肌が照らされている。」

そう言って、静かに山を見つめていました。

実は私たち、

学生時代はワンダーフォーゲル部でした。

山で出会い、

山で恋をして、

山で人生を約束しました。

結婚してからは、

子育てと仕事に追われ、

山へ行くことは一度もありませんでした。

だから私は、

闘病中になって急に山の話ばかりする主人に、

少しもどかしささえ感じていました。

きっと私も、疲れていたのでしょう。

主人が亡くなる前の日も、

目を開けるのも苦しそうな中で、

小さな声で聞いてきました。

「母さん。

今日の山はどうだい?」

翌朝、主人は静かに旅立ちました。

それからというもの、

山を見るたびに、

主人との思い出が浮かぶようになりました。

主人の実家は遠く、

三男だったこともあり、

お墓をどうすればいいのか悩みました。

そんな時に知ったのが、

粉骨という方法でした。

その言葉を知った時、

張りつめていた心が、

少しだけ軽くなった気がしました。

一回忌の日。

私は娘たちに、

主人が最後まで山を見ていた話をしました。

すると娘が、

笑いながら言ったのです。

「お母さん。

今度みんなで、あの山に登ってみようよ。」

私は思わず涙がこぼれました。

そうか。

主人は一人で山へ行くんじゃない。

また家族みんなで登るんだ。

孫たちも連れて。

粉骨した主人を少しだけリュックへ入れて。

あの日、

二人が出会った山のように。

主人が最後まで見つめていた山のように。

きっと山頂へ着いたら、

私は空を見上げて言うのでしょう。

**「あなた。

今日の山は、本当にきれいだよ。」**

___________________________________

この物語は、「お墓じまい後の物語」のオリジナル作品です。

文章・構成・イラストの無断転載、複製、生成AIへの再利用、改変、再配布はご遠慮ください。