「今日の山はどうだい?」
主人の入院生活は長いものでした。
私もできる限りのことはしました。
嫁いだ二人の娘も、まだ小学生だった孫を連れながら、何度も病院へ来てくれました。
それでも正直に言えば、しんどい日もありました。
主人が一番つらい。
そんなことは分かっていました。
それでも私は、ときどき心ない言葉を口にしてしまったことがあります。
今思えば、もう少し優しくできたのではないか。
そんな後悔は、今でも私の中に残っています。
主人は、病室でテレビを見るのが好きでした。
でも、ある頃からテレビを消し、窓の外を眺める時間が増えていきました。
「母さん、今日は天気がいいね。」
「ほら、向こうの山。山肌が照らされている。」
そう言って、静かに山を見つめていました。
実は私たち、
学生時代はワンダーフォーゲル部でした。
山で出会い、
山で恋をして、
山で人生を約束しました。
結婚してからは、
子育てと仕事に追われ、
山へ行くことは一度もありませんでした。
だから私は、
闘病中になって急に山の話ばかりする主人に、
少しもどかしささえ感じていました。
きっと私も、疲れていたのでしょう。
主人が亡くなる前の日も、
目を開けるのも苦しそうな中で、
小さな声で聞いてきました。
「母さん。
今日の山はどうだい?」
翌朝、主人は静かに旅立ちました。
それからというもの、
山を見るたびに、
主人との思い出が浮かぶようになりました。
主人の実家は遠く、
三男だったこともあり、
お墓をどうすればいいのか悩みました。
そんな時に知ったのが、
粉骨という方法でした。
その言葉を知った時、
張りつめていた心が、
少しだけ軽くなった気がしました。

一回忌の日。
私は娘たちに、
主人が最後まで山を見ていた話をしました。
すると娘が、
笑いながら言ったのです。
「お母さん。
今度みんなで、あの山に登ってみようよ。」
私は思わず涙がこぼれました。
そうか。
主人は一人で山へ行くんじゃない。
また家族みんなで登るんだ。
孫たちも連れて。
粉骨した主人を少しだけリュックへ入れて。
あの日、
二人が出会った山のように。
主人が最後まで見つめていた山のように。
きっと山頂へ着いたら、
私は空を見上げて言うのでしょう。
**「あなた。
今日の山は、本当にきれいだよ。」**

